早朝。
 いつも、鐘の音で目が覚める。
 館の者たちに尋ねても、誰も鐘の音などは聞こえない、という。
 ましてやこの里には、「鐘などはない」と。

 でも、確かに聞こえるのだ。
 寺院の鐘が、ゆっくりと、静かに、しかし頭の芯に染み渡るように重く響く。
 それで目が覚めるのだ。
 日が昇るか昇らないかの早朝。
 いつものように目覚めると、いつものように一人で、だだ広い部屋にいた。
 鐘の音が聞こえて目が覚めるようになる前は、侍女のような者がやってきて、頼んでもいないのに身の回りの世話をやっていった。
 だが、早朝に目覚めるようになるとそうはいかなかった。早すぎて誰も来る時間ではないのだ。
 それは自分自身にとっては都合のいいこと。
 誰かにかしづかれて生きてきたわけではないので、そのように扱われるのは不慣れだったし、正直重荷だった。
 だから、起きた時一人でいることが妙に嬉しいような気がした。一人でやれることを、一人ですることができるから。
「綾」
 一人で身繕いをしていると、いつも彼が部屋の前にやってきて、小さく名を呼ぶ。
 部屋と廊下を遮る襖を開けることなく、そこに立ったまま、ささやきかけてくる。小さな声で。
「桃蓮」
 着替えの手を止めて、呟くように、彼の名を呼んでそれに答える。
「……今日も、早いな」
「……うん」
 それだけ、襖を間にして、それだけの言葉を交わして。
 彼はまた何処かに行く。何処にいくかは知らない。桃蓮は教えてくれなかった。

 着替えを整え終え、しかれていた蒲団を畳んでしまってから、ようやっと彼女がやってくる。
「また、お一人でやってしまわれましたのね」
 侍女が溜息をついて言う。そのとき、彼女らの種族特有の金の猫目がきらりと光った。
「朝餉の支度は出来なかったわ」
「そのご用意までおやりになられては、私たちの役目がほとんどなくなってしまいます」
 心底困ったように彼女は眉をひそめ、それから朝餉の粥を乗せた盆を置く。

 ……そんな役目、いらないのに。

 ここに連れられて以来、何度となく思ったことだったが、口に出したことはない。誰の前にも。

 朝餉が終わって、ようやっと外に出ることができる。
 身体をぴんと伸ばして、せいいっぱいに朝の冷たい空気を吸い、朝露に濡れた木々草花の、みどりの匂いを嗅ぐ。

 桜は、もう散ってしまったかしら。

 ふう、と息を漏らしながら、頭の隅であの林のことを思い出す。これも、毎日のこと。

 朝の張り詰めた空気を感じて、散歩に出たいと思った。
 爽やかな風に吹かれて、冷たい空気を吸いたかった。
 だから、草履を履いて庭から外に出ようとした。
「……どこへ?」
 そこへ、唐突に背後から声がかかる。
 いつからそこにいたのかわからなかったが、そこには彼……桃蓮が立っていた。
 後ろで三つ編みになっている長く赤い髪、薄黒い肌、金の瞳。出会ったころはなんとも不思議な姿に思ったものだ。
「……散歩に出ようと思ったの」
「一人でか」
 頷くと、困ったような雰囲気をうっすらと顔に浮かべ、彼は小さく溜息をついた。
「外は、危ないと言った筈だったが」
「逃げようと思ったわけじゃないわ」
 桃蓮は頷いた。
「しかし、外はお前が一人で歩けるほど、お前にとって安全ではない」
 金の眼差しが見下ろしてくるのを感じたけれども、頑として首を振り、言った。
「一人で大丈夫」
「そう言って、この前お前は襲われた」
「………」
 そう。かなり前のこと……ここにつれてこられて、すぐ。
 一人で出歩いている時に『鬼』と名乗る者達に襲撃された。
 それは忘れてはいない。
「一人になりたい……そう言ってはだめ?」
「……駄目だ」
 彼にそういわれては、折れるしかなかった。
 散歩に出るときは、いつも彼が付いて来る。それも、変わらない。
 彼が嫌いなわけではなかった。それでも、一人になりたいときは一人でいたい。危ないといわれても、それでも。
 一緒にいたいときは一緒にいたい……そういうのは、わがままかもしれない。

 今日もいつものように桃蓮と館の周囲の森を歩く。
 草花の名や、里の季節の行事を教えてもらいながら。





 毎日の間に多少の差はあるものの、大筋は変わらない。
 寝て、起きて、食べて、ここの習慣を教えてもらって。
 それが続く毎日。
 変わらない、日常。
 本当にそうだろうか。
 真実の日常は、自分の家に一人で住んでいた、ということの筈だった。
 ここにつれてこられてからはそれは一変した。
 しかし、ゆるゆると、ここにいることがふつうになっている。
 ここにいなかったことが過去のことに。
 ここにいることが、いつものことに。









桜乃林 : 綾……日常