(世の中なんて、不公平だよ)
 少年は心の中でつぶやく。
 同時に暗い硬い裏路地にうずくまっていた少年は、ため息をついていた。
 今は夜。
 稼ぎ時の夕方はとっくに過ぎて、裏路地を抜けた裏通りは明るい賑わいを見せている。その残光が路地にまで僅かに届いていた。
 ふところには投げナイフの芸のための道具と、それで稼いだ僅かながらの金と、明日のぶんのパンがあるだけだった。
(世の中には腹が減ったらそれが満たされるまで飯を食べることが出来るやつとか、親とか兄弟がいるやつとか、住むところがあるとか、金があるやつとか)
 裏路地は、この国にとっては『濁り』そのものだった。表通りから排除され、たまった濁り。汚れ。
 服は着たきりすずめ。そこらじゅうがほつれ、破れ、服というより襤褸に近かった。
 懐にあるパンを今すぐにでも食べたい衝動に駆られるが、今日の分は食べたのだから、と我慢をする。
 家がないのも服がないのも別にかまわない。慣れていたし、まだ冬ではなかったから我慢できた。ただ、ひもじいのだけはどうにもならなかった。


「仕方ねぇんだよ」


 ものごころついた頃は、もう少しマシな生活をしていたものだった。事故で親が死んだあと、少年は孤児となり、経済状態が悪化したこの国で路上生活を強いられた。
 親が死んだのは仕方ないことだった。経済状態が悪いのも仕方ないことだし、路上で生活しなくてはならないのも仕方のないことだ。
 誰を恨むことも出来ない。
 でもただそれを、その生活を受け入れるつもりは、少年にはなかった。

「生きるんだ」

 少し前まで、少年は全てを恨んでいた。
 自分を置いて死んだ両親。
 自分に何もしてくれない他人。
 このような状況に追い込んだ国。
 その恨みに任せて、『生きるために』と、盗みを何度も働いてきた。実際、そうしなければ生きていけなかったろうと思う。
 そして、パンを食べたくなる衝動のように、盗みをしたいという衝動が沸き起こるときがある。そのときは、決まってあのヒトの言葉を思い出していた。そして、頭を振って思いとどまり、いつも自分に向かってつぶやく。


「強く」



 衝動に打ち勝ったのか、空腹でその行為をすることすら諦めたのか。
 どちらなのか、本人にも分からない。
 彼は体を起こし壁にもたれて、路地の隙間から見える夜空を見上げた。
「空だけは、俺たちにも平等なんだよなぁ。どんな狭い空でも、等しく俺たちを覆ってるんだ」
 あのヒトはそういっていた。空を見上げる余裕なんて本当はこれっぽっちも無いはずだったのに。


「いいか、小僧。明るすぎる光は夜空から星を奪うんだ」
 彼には名前がなくなっていた。彼自身が忘れてしまったのと、呼ぶヒトがいないのとで、必要がなかったからだった。
 あのヒトの名前もなかった。正確には、捨てた…ということだったが、その意味が少年には理解できなかった。
「だけどな、暗すぎる影はヒトに太陽を忘れさせる。小僧」
 あのヒトは言った。重々しく。その言葉は少年の頭に焼き付いている。そのとき、理解できなかったとしても。
「太陽を忘れるな。たとえ暗い路地の影にうもれようとも、小僧のような小僧が、そんなことして生きてちゃいかん」
 濁り、汚れきった場所で、姿ではあったけれども……濁りのない目で、あのヒトは少年を見据えた。

  少年は其の日から盗みをやめる。

 しかし、やがてそのヒトは何処かへ消えてしまった。少年はもう彼とはだいぶ会っていない。1年……もしかしたら何年も。

(もしかすると、もう死んでいるかもしれない)
 そのヒトを最後に見たとき、やつれ、うす黒い肌には骨と血管が浮き上がっているのが路地裏の薄暗闇でもはっきりと分かった。
(もしかしなくても……たぶん、死んだんだ)
 いつか、少年もそんなふうにして死んでいくのだろうか。
 少年は思考を停止し、路地に横になって身を縮めた。



 少年はやがて大きくなった。投げナイフの腕も上がり、日々の稼ぎは上々とは決していえなかったが、生きていけるほどのものになっていった。
 汚いとののしられつつも、働ける工場もなんとか見つけた。一応、そこで通り名をつけられてはいたが、本当の名前ではなかった。
 家もない、服もない、名すらない、そんな生活。友と呼べる友もいることなく、日々黙々と生きていた。
(世の中なんてのは、不公平に出来てる)
 広大な濁りと淀みの向こうに、何もかもを見通せる美しいものが小さく広がっている。
 そんなものだ、と少年は思った。自分はその向こうに生けるものではない。
 憧れていたのか。
 そうではない。
 彼は濁りに慣れきってしまっていた。
「太陽を忘れるな」


 少年から青年へと移り変わる時期、彼に転機が訪れる。
 ふとしたきっかけで彼は貴族階級のものに認められてしまったのだった。半ば、強制的に。
 彼には名が与えられ、身分も与えられた。
 濁った場所から、その場所を濁らせている場所へ。
 透明で、美しい、よどみのない場所だと思っていた、その場所へ。
 その場所に行って初めて、青年は彼……路地裏で語ったあのヒトの言葉の意味を悟った。
 裏路地とは別の濁りが、美しくあるべき場所を濁らせている。
 裏路地から見た表通りは酷くまぶしく、美しかった。


 しかし、そこもまた、濁っていた。

 国の名前はルーンデシア。機械王国と呼ばれる、国。











ROUND SHAPE : ルパ……濁り