いつか誰かが言った。海域が違うと、海の色が変わる、と。



 海が見たことのない色で、そこに浮かぶ船底を撫でている。
 空はとんでもなく青くて、これまたとんでもなく白い雲が隆々と流れている。
 そのど真ん中にある太陽はきつく船上を照らしていた。
 漂う、潮の臭いと、湿気の臭い。
 波の音、マストが軋む音。

 そして、

「首を切れ」
 ぼくの声。

 命乞いもすることなく、彼は哀しげな瞳をぼくに向けてくるだけだった。
「あの頃に、もどれたらいいのにね」
 憂いに富んだ声が、波間に細く消え行く。





 ぼくは手にした剣を振り上げた。




 これで積年の欝屈した感情は消え去る。
 これで君は永遠に失われる。












 なぁんだ。


 簡単じゃないか。







 




漣と船の軋む音に、ごろりと重いものが転がる音が割り込んだ。










斬首のゆめ











「痛っ」
 取り落としたものがごろごろと床を転がる。果物ナイフの鋭い刃が指に小さく食い込んだ。指先から血がにじみ出る。
「どうかしたか」
 隣で同じようにジャガイモの皮を剥いていたケネスがその手を休めて尋ねてくる。
「ちょっと指切った」
「平気か?化膿すると危険だぞ」
 立ち上がろうとする彼を制して、レイはウェストポーチに怪我のない手を入れる。
「あ、絆創膏と消毒液はちゃんと持ってるから大丈夫。気にしないで続けてて」
「妙に用意がいいな、レイは」
 座って作業を再開しながら、関心したふうにケネスは言う。
「それなのに、今日は寝坊なんかしたりして。珍しいよな」 
 レイは絆創膏を包みからはがす手を止めて、うな垂れるように頭を下げた。
「……ごめんね、ケネス」
「まーた謝る。もういいって言ったじゃないか」
 彼はイモの目を器用に剥きながら笑う。
 今日、何もかもをきちんとこなすレイにしては珍しく寝坊をしたのだ。そのせいで騎士団養成校の朝礼に遅れ、懲罰として厨房の片隅でジャガイモ剥きを課せられた。ケネスはレイが朝礼にやってこないことを心配し、自主的に彼の様子を見に行ったためその煽りを食らったのだった。気に病んだレイは、先ほどまでひたすら彼に謝っていた。
 重い空気を放ち始めたレイを励ますように、ほら、作業作業!と急かす。夕餉の時間までには山積みとなったジャガイモを全て剥かねばならない。
 レイは頷きながら、消毒した傷口に絆創膏をぺたりと貼った。そうして貼られた白い小さな絆創膏をじっと見つめて、ぽつりと言葉を洩らす。
「………夢をみたんだ」
「うん?」
 レイは先ほど落としたジャガイモを拾い、軽く手で擦った。
「誰かを殺す夢」
 ケネスが手を止めるのと入れ替わるように、彼は皮を剥き始める。




 転がっていったのは皮が中途半端にむけたジャガイモじゃなかった。
 今、ついさっき。僕自身が斬りおとした君の、首。




 レイは自分の見た夢を思い出して小さく震えた。上手く刃が通らない。
 ケネスは彼をじっと見つめたままだったが、やがて困ったようにふ、と笑った。

「昨日は暑かったからなあ」
 彼らしくもない間延びしたような声に、レイも手を止めて笑う。
「うん、寝苦しかった」
 暑かったから兵舎で借りている自室の窓を開けて眠ったのだが、夜吹き込む海風だけでは暑さはぬぐえなかった。そういう夜だった。
「そのせいさ、レイ。嫌な夢を見たのはさ」
「そうかな……」
「そうだって」
 ぼんやりとした視線を宙に彷徨わせているレイに、同期の訓練生は笑いかける。
「よかったじゃないか」
「え?」
 宙からケネスへ視線を戻して、少年は声を上げる。
「それが夢でさ」
戸惑う彼の青い瞳を受け止めて、相対する少年もまた、彼をまっすぐに見返した。
「ほんとうの、現実にあることだったら、取り返しがつかなかったよ」
「取り返し……」
「人は死んだら生き返らない。奇跡でも起こらない限りな。
 後で思い直して落とした首をつなげてみても、その人は死んだままだ」
「………」
 レイは胸中で朝から何度も再生されている斬首のゆめを、ふたたび繰り返した。どこであるとも言わないその視線の先には、自分が僅かにゆがみくもって映る、小さなナイフ。
 思案し始めた同期をよそに、ケネスは少し笑ってから皮むきを再開した。半分ほど剥かれて芽が取り除かれたイモを見つめたまま、しかしなお彼は続ける。
「意外と、分からないもんなんだよ」
 レイはナイフから視線を外し、そんな彼を見やる。
「ケネスは、色々知ってるね」
「そんなことはないさ」
 ううん、と彼は首を振ってから、彼もまた、イモを剥き始める。
 日は既に傾きかけ、兵舎の厨房には少しきつい西日が差し込み始めてきていた。それが座り込んでイモ剥きをしている彼らの影をゆっくりと伸ばす。
 レイは少し剥く手を早めた。おしゃべりしている時間はない。
 夕餉までに仕上げなければカタリナ副団長からお説教を食らうことは必至だ。





















 海と船と、その船に乗る僕らを照らす太陽は、強すぎる光を当てて、ぼくを苛む。


 これで彼は永遠に失われるのだ。


 ぼくは落とした剣を拾うこともできず、膝をついた。
 彼がじっとぼくを見つめているのがわかった。
 空とぼくとを映したその色に込められているのは、一体なんだろう。
 驚きなのだろうか、怒りなのだろうか、悲しみなのだろうか、

 ……それとも、哀れみなのだろうか。

 ぼくはそれをどうしても見ることができなかった。視界は船の板木でいっぱいになっている。



 ――後で思い直して首をつなげてみても、その人は死んだまま


 誰かがぼくにそう言ったのを思い出した。
 今更。
 今更、そんなことを思い出して、どうしようというのだろう?
 左手がうずいた。剣を振り下ろそうとしていたその手が、ぼく以外誰にも聞こえない音を立てて鳴いている。









「レイ……?」

 彼がぼくの名を呼ぶ。
「どうしたんだい?」

 ぼくは顔を上げる。彼が先ほどと同じ体勢のまま、されど見上げるのではなく同じ目線でぼくを見ている。
 見ると、先ほど取り落とした剣がさびしげに甲板に横たわっている。
 彼はと言えば、少し戸惑った様子でぼくを見ている。
 怒りも、悲しみも、哀れみもない。どちらかといえば驚きがあったのかもしれなかった。眉を八の字にまげているその顔がなんとも、情けない。


 ――よかったじゃないか。夢で。

 言葉が響く。
 胸が、熱くなった。








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