桜が咲いている。
 満開のそれは、もう散り時なのか風が吹くたびに揺れ、薄紅色の花びらを空に舞わせていた。
 あと数日も、或いは明日にでも。その花びらは全て散り、新芽から現れた葉が育ち、茂り、葉桜となる。夏を謳歌し、秋に葉を落とし、冬に耐える。そうして巡った季節に、また花を咲かせるのだ。

 もう、何度それが巡ったことだろう。

 桜の木は成長は早いが、そのぶん寿命はさして長くない。
 以前は林だったそこは時が経つにつれ、一本、また一本と姿を消し、今や老木となった巨大な桜がひとつ、ぽつんとあるだけだ。
 男が一人、その根元に立っている。なんということはない。粗末な着物を身に着けた若者だ。
 ただそれが常人と異なっていた部分があった。赤い髪。長い耳。褐色の肌。
 男は桜の古木の幹にそっと触れる。
 一陣の風が吹き込んだ。樹はざわざわと鳴り、花びらはいよいよ勢いよく散り始める。
 男は風に吹かれるまま、そっと樹を見上げる。その瞳はやはり常のものではなく、金色に輝いている。男は目を細めた。それは懐かしさに揺れている。
 古木の桜と異形の男が立つそこは、枝の揺れる音以外はなにもない平原。かつては桜の木が林を成すほど生えていたが、今は見る影もない。
 空は抜けるほど青く、巨木から零れ落ちる無数の桜の花びらが映えている。男の足元は花びらで埋まっていた。

 やがて男は幹から手を離す。
 吹いていた風はやみ、辺りはふたたび静寂に包まれる。
 名残惜しそうにそれを見つめてから、男は古木に背を向けて歩き出した。履いている草鞋がじりと地面をならす。
 彼の視線の先には、懐かしい山がある。
 かつて彼が生まれ育った、されどもう二度と足の踏み入れることのない場所。彼はそれを自ら捨てた。ここにあった桜の林とともに、彼は捨てたのだ。生まれ育った場所を、そして友を。

 緩やかな風が吹く。彼の短い赤い髪がふたたび揺れ、足元の無数の桜のはなびらが円を描いて舞う。

 それは酷く美しく、儚く、そして物悲しい。
 春の風は温かい。
 男の髪を、頬を、背をそれは優しく撫で、通り過ぎていった。
 失ったものを思い出す彼を、慰めるように。励ますように。