世には妖(あやかし)が跋扈し、地を汚し、人々に飢えと、そして大いなる恐怖を与えていた。
 人々の中には恐怖に打ち勝とうと、妖を倒そうとする者がいたが、
 しかし、非力な人の身では彼らを滅ぼすことは適わなかった。
 やがて、人々は願うようになった。魔物を滅する者が現れることを。
 そのうち、彼らの願いを聞き入れた者共が現れる。彼らは人々から「天狗」と呼ばれた。
 しかし、摩訶不思議な力を操る彼らでも、妖を倒すことまでは適わなかった。
 そこで、天狗と人は契約を結ぶ。
 天狗が妖から人々を守るという契約を。



 その契約がなされて、百数十年。
 彼らの守護下に入った集落の一つに、天の村があった。




◆◆◆◆






「どうしたー、ほうけた顔として」
 雲が空をのんびりと流れているのを見上げていた少女は、菜の花畑の向こうから名を呼ばれて我に返った。
 声をかけてきたのは彼女の幼なじみの少年だ。畑の脇にある小道から口元に両手を添えて声をあげているので、妙に間延びしている。抱えていた籠を持ちなおして、少女はかぶりを振った。
「なんでもないよー。それより、何か用ー?」
「何か用って……」
 仕事中の身ゆえに近寄ることなく、少女が同じように大声で返すと、少年は一瞬困ったような顔を見せる。
 しかし諦めたようにため息をついて、彼女の傍までやってきた。畑に入ったことで茶々をいれてきた畑の主を適当に受け流しながら。
「今日、いい川魚がとれたんだ。分けてやるからうちで夕飯食べてけよ」
 わざわざやってきた少年がそう告げる。彼女は目をしばたたかせて、それから首を横に振る。
「いいよ、悪いから」
「遠慮するなよ」
「してないよ。今日夕食の支度をしてきたから、もったいないだけ」
 すまなさそうに言ってから、少女は幼馴染に笑いかけた。
「だから、ごめん。せっかくだけどまた今度ね。お誘い有難う」
 少年に礼を言った後。畑作業をしていた主から呼ばれて、少女は籠を抱えてそちらに向かっていった。礼を言われた彼は、ぽかんとした顔で菜の花畑に一人残されてしまう。
 遠くから見守っていたのだろう。その様子をみて、村人がしのび笑いもそこそこに口々に言い合う。
「勇哉(ゆうや)の奴、またしくじってるよ」
「綾(あや)も手強いなあ」
「わざとじゃないだろう、ありゃ」
「そうなると、ますます前途多難だな」
 そんな人々の他愛のないやりとりは、畑にぼんやりと立っていた少年の耳にむなしく響いた。





 少女の名は綾という。名付けてくれた親は物心ついたころには既に亡く、育ててくれた祖父母も亡くなって久しい。彼女は日暮れ近くになると畑仕事を終え、村外れにある小さな家に戻る。かつて両親がここで暮らし、祖父母と彼女が暮らした古い古い家だ。
 分けてもらった野菜を置いてから、小さな供え物と薬類を手に持ち、彼女は再び外に出た。
 両親と祖父母の墓参りだ。村の隅にある彼女の家からさらに離れた場所に、ひっそりと墓がたてられている。十日に一度ほど訪れていたが、最近は頻繁だ。

 というのも数日前、その傍で怪我をした鴉を見つけたからだった。

 先祖の墓の傍に現れた手負いの黒い鴉。てらてらと光るその毛並みに、不吉な気がしないでもなかったけれども、放っておくわけには行かなかった。その鴉は生きていたからだ。
 急いで家に戻り、以前薬師の家の者から分けてもらった傷薬を手にとって、鴉の手当てをした。連れて帰ろうとも思ったが、俄かに抵抗をされたため諦めた。どうやらその場所を離れるつもりはないらしかった。
 かといって放っておくこともできず、なんとはなしに気になって見に行っているのだった。
 勇哉からの誘いを断ったのも、実を言えばこのためなのだ。本当のことを言えばきっと、彼はひどく落胆するに違いない。彼に嘘をつくのは心苦しかったが、仕方ないことだと言い聞かせていた。

「やっぱり、今日もいた」
 まだ傷は癒えていないのだろう。ぽつんとたてられた墓の傍の木の下に、問題の鴉がやはり今日もうずくまっていた。綾の声が聞こえたのか、彼女が近づいてきたことを察知したのか。鴉はその首をわずかにもたげた。
「今日も薬を持ってきたよ。あと、たべもの」
 言いながら手に持った薬と供え物をしめし、そしてその傍に膝を抱え、しゃがみこんだ。
 彼女が話したところで、鴉に分かりはしないだろう。それは分かっていたが不思議と話しかける気になった。この黒い鳥は頭がいいのだと、育て親だった祖母に言い聞かされていたせいかもしれない。
 くりくりとした黒い目が綾をじっと見つめている。その目を見ると、鴉という生き物も意外とかわいらしいものだ。
 小さく断りながら、彼女は薬を取り出し傷口に塗ってやった。数日前に比べればいくらかよくなったように思える。翼は無事なので、身体の傷が治ればまた飛べるようになるだろう。
「お食べ」
 持ってきた供え物をつついている姿を見ながら彼女はぽつりと言う。
「もうすぐ、桜が咲くよ」
 彼女は頭上に広がる木の枝を見上げた。その向こうに見える空は赤みを失いつつあり、周囲は静かに世闇に侵食されていっている。
 枝についた芽はぷっくりとふくらみ、いくつかはほころび始めていた。今年の桜は少し咲くのが遅かった。菜の花はもうだいぶ花開いてきたというのに。
「おまえには、あまり関係ないかな」

 春が来ると、彼女の住む『天の村』では祭りが始まる。桜が咲くのがその合図だ。村の中の桜がひとつでも咲くと、村人は祭りの準備を始める。満開になり、それが散るまで祭りは続く。

 綾は桜が好きだった。
 もうすぐ咲こうとしているこの木の下に、祖母が永眠っている。
 数年前の祭りが終わる頃に、祖母は死んだ。
 彼女は幼かったが、そのときの光景を今でも忘れない。

 それでも、彼女は桜が好きだった。亡くなったことも含めて、大好きだった祖母のことを思い出すからだろうと彼女は思っていた。
 カア、という鴉の鳴き声で、綾は我に返った。日はもう殆ど沈んでおり、周囲は夜闇に包まれかけている。慌てて立ち上がった。
「いけない。もう帰らなきゃ」
 夜道は暗い。幾ら通いなれている道とはいえ、暗いなか一人で戻るのはやはり怖いものはある。灯りとなるものも何も持っていないので、なおさらだ。
 また明日ね、と鴉と墓に向かって言ってから背を向ける。歩き出して、綾はくしゅんと小さくくしゃみをした。
 春先だが、夜更けになれば、まだ肌寒い。村はずれは少し小高い丘になっているから、余計にだ。急いで戻らねばなるまい。



 立つ者のいない床はひんやりと吹き込む風を浴びて、その主を冷ややかに迎える。
 中を片付けて、漬物だけで夕飯を済ませ、一息ついた後。
 綾はいつもどおり一人ため息をついた。静かな夜。虫一つ鳴いていやしなかった。
「やっぱり、勇哉の家に行けばよかったかな……」

 独り言を呟いてから彼女は慌てて首を振った。
 祖母が亡くなってからもう七年が過ぎている。その頃まだ十にも満たなかった彼女は、ほんの一年前まで勇哉の家の世話になっていた。
 その一年前、彼女は養父らの反対を押し切って、かつて暮らしたこの古い家に戻った。
 彼らを疎ましいと思ったわけではない。むしろ世話になっただけ、勇哉の家族らには感謝していた。
 だけれども、彼女はこの家と墓を守らねばならない。十五になったらその役目を引き継がせようと祖母は言っていた。それを忠実に守ろうとしたわけではないが、祖母との約束を守りたいという気持ちが強かったのだ。  今は村人の畑仕事を手伝い、食べ物を分け合いながら、この家でひとりで生活している。
 そんななか、今日の勇哉の誘いは嬉しいものではあった。だけれども、鴉のことが気になったし、世話になってばかりもいられなかった。
 しっかりしなくてはならない。
 もう少しで桜も咲く。そうなれば、祭りが始まる。そのための手伝いや準備のために、しっかりしていなくてはなるまい。
 彼女は親もないなか、勇哉の親だけではなく村の人々にも世話になっている。その恩に報いなくては。
 小さな拳をきゅっと握り締め、綾は古い家の中でひとり、決意する。