「なあなあ、何処に行くんだよ!」 木から木へ。それが得意な猿(ましら)すらも恐れ入ってしまうような速さで、二つの影が森の木々の中を駆け抜けていく。葉が繁る森の中は鬱蒼(うっそう)としており、間から注ぐ薄光と静寂が秩序立てていたが、跳びまわる二つの影がそれを見事にかき乱していた。 「別に何処に行ったって、いいだろ」 影のうちの一つ、青年がそっけなく答えると、その後ろを付いてきている同い年くらいの刈安色の髪の青年は声を張り上げる。 「よくない、よくない! 火蓮(かれん)がカンカンなんだよ……な、俺たち幼馴染だろ?」 青年は懇願するように声を出してみるが、先を行く青年は意に介した様子はない。それにしつこくついていきながら、彼は大袈裟にため息をついてみせた。 「もうすぐ『巫女選び』だろ? 牙蓮(がれん)とか天蓮(てんれん)になんか言われるぞ、桃蓮(とうれん)?」 「……」 桃蓮と呼ばれた赤い髪の青年――そう、赤い色の髪だ――はその青年を無視して、黙々と先へ進む。そのあとをなんやかんやと騒ぎつつ、彼はなおも後を追う。こすれる葉の音、僅かに軋む枝。とまっていた鳥や小動物が慌てて逃げていくのを尻目にしながら、彼らは森の木々の上を駆け抜けていく。 二人とも黒ではない髪、黒ではない広い虹彩と、猫のような瞳を持っていた。耳は長く先が尖り、肌の色は総じて褐色である。その姿で木々を軽々と移動する様は、常人には見えない。 先行く青年は無言で進むが、尚も後ろで構わず喋繰りまわる幼馴染に、やがて折れた。 「……しつこいぞ、木蓮(もくれん)。ついてくるな」 桃蓮は淡々としながら、青年に言い放った。振り向いた拍子に赤髪の三つ編みが跳ねる。 「あー? そういうこと言われると、余計ついていきたくなるんだなこれが」 木蓮という青年はぴったりと桃蓮に付いて枝の間を飛びながら、にやりと笑う。 「そうか……」 桃蓮はちらりと後ろの青年を見やり、溜息をつき背後に向けて片手で小さく印を切った。鋭く硬い音と共に、丁度木蓮が跳び乗った木が傾く。 「う、お、ちょっ――」 慌てた彼は他の樹木に移ろうとしたが、時機を逸したようだった。情けない悲鳴をあげて、木とともにまたたくまに地面へ消えていく。落ちていく木蓮を横目で見て、桃蓮はそのまま先に進んだ。 (いつも首を突っ込もうとするな……あいつは) 地に消えていった幼馴染の刈安色の髪を思い出しながら、小さくため息をつく。それよりも、と周囲に目を向けようとしたのもつかの間。 「ばあ!」 何の前触れもなく、眼前にその刈安色が降って来る。思わず身を引いてしまった桃蓮は、危うく先ほどの木蓮と同じような目に遭うところであった。 折れる寸前の枝にぶら下がっている幼馴染を満足そうに見下ろしながら、追いついた、と木蓮は笑った。 「な、何処に行くんだ」 けろりとした顔と声の木蓮にわずかに項垂れてから、彼は息を短く吸う。ぶら下がっていた枝から離れ、木蓮の立つ樹の隣に身軽に跳び移った。 「九郎がいないんだ」 観念したように告げると、木蓮の顔からみるみる『覇気』のようなものが失われていった。心底落胆したように肩を落としている。 「なんだ、あの阿呆鴉か」 「阿呆じゃない。九郎(くろう)だ」 一体彼が何を期待していたのかはわからなかったが、投げやりな物言いに桃蓮は僅かに眦(まなじり)を上げる。彼が探しているのは、彼が幼い頃より一緒に暮らしてきた鴉だった。それは同じように里で育ってきた木蓮も知っているはずである。 「わかったわかった。探しに行くんだろ」 「俺が一人で探すからいい。火蓮が五月蝿いのだろう」 「水臭いぞ、桃蓮。あの阿呆鴉を見つけるなんざ、この木蓮様にかかれば至極容易きことなりにて」 「『それ』は、そういうことに使うものではないだろう」 目を伏せながら言う桃蓮とは対照的に、木の葉の向こうにある空を見上げていた木蓮は笑って片目をつぶってみせた。 「それが水臭いって言ってるのさ」 木蓮の手によって、あっさりと探している鴉の気配を掴んだ二人は、それを頼りに森の奥のほうへ進んでいく。彼らが今いる森の周囲は、彼らの一族が張り巡らせた結界の一つである『内結界』が張られていたが、鴉の気配はどうやらその外にあるようであった。 一刻もしないうちに彼らは『内結界』の端にまで辿り付く。一見してそこはやはり森の中のままで、その向こうもまた木々が続いているかのように見えた。しかし、実際には彼らの目の前には人間には不可視の薄い膜が張られている。そこは彼らと人間との境界線。 「しかし、九郎は結界を越える力はなかった筈なのだが」 「空間が歪んでいるんだろ」 言いながら膜に木蓮が触れると、それは水面のように円形の波を生み出した。鈴がひとつ鳴ったような音が、空気を僅かに震わせる。 「ほら、『ほころび』だ」 あとで天蓮に文句言ってやる、などと呟きながら、木蓮は両手を組み印を結んだ。彼らは一族に伝わる術を扱うが、先ほど桃蓮が樹木を断ったものとは別の術であった。結界のほころびを一時的に抑えるもので、桃蓮には扱えない。木蓮にばかり使えるのは癪であったが、彼は出来ることなら使えるようにはなりたくないと思っていた。 結界を抜けると、二人の眼に映ったのは先ほどの森の木々ではなく、小高い丘であった。見上げる空はより青く、雲も少ない。広がる場所は桃蓮には見覚えのないものだった。 「里からはだいぶ離れているようだ」 「捻じ曲がってるんだよ。この近くに阿呆鴉がいるぞ」 最早訂正する気も起きなかった桃蓮だったが、覚えのある匂いが鼻をつき、周囲を改めて見回した。 「弟切草の臭いだ」 「薬草か」 丘の中央部には芽の膨らんだ木と、小さな墓が寂しく立っている。その傍にうずくまる黒い塊を認めて、桃蓮は駆け寄った。 「九郎」 「おお、坊!」 気付いた鴉が声を上げる。馴染みの濁(だみ)声に安心しながら、彼はしゃがみこんで鴉に触れた。翼を畳んで地面に縮むようにしている鳥は、どうやら怪我をしているようだ。薬草の匂いがつんと鼻をついた。 「ちょいとしくじってなァ」 「――よもや、妖(あやかし)か」 低い声で尋ねる桃蓮だったが、鴉はその黒い嘴をぱかりと広げて振り、否定する。 「だと、格好が付くんだがなァ……」 言葉を濁す鴉に、ゆっくりと桃蓮に追いついた木蓮が顔を出して口を挟んだ。 「どうせ猫だろ、猫」 「猫又か」 なおも真面目に問う友に、彼は笑った。 「いんや、普通の猫だな。爪が飛び切り鋭い奴だろうが、情けない鴉よのう」 「ちえ、木蓮の旦那はなんでもお見通しだな」 今度はそれを否定せずに、拗ねたように九郎は呟いた。ふんと鼻を鳴らし、木蓮は胸を張る。 「我輩の凄さをとくとそのちっこい頭に刻み付けるが良い」 九郎は何故木蓮を連れてきたのだと言わんばかりの様子だったが、桃蓮はとりあえずその身体を撫でてやった。 うっかり遠出をしてしまって帰れなくなったこの鴉、猫に不意を打たれ、負傷の憂き目に遭ったのだという。怪我をしているという体には、薬草を煎じたものが塗り付けられ、その上に粗末だが清潔な布が巻かれていた。訝しんだ桃蓮が誰かに手当てしてもらったのかと尋ねると、丘を少し下ったところにある村の娘に手当てを受けたのだと九郎は答えた。 「どうってこたない娘ッ子だったがね、世話ンなったから、礼はしてえなあ」 「へえ、殊勝なことを言うじゃないか、阿呆鴉」 嘴をつついた木蓮を小突きながら、桃蓮は頷く。 「俺からも礼がしたいものだが……」 「よせよせ、相手は人間だ。阿呆鴉は別に良いが、お前たちは極力、交わらない方がいい」 眉をひそめて片手を振る木蓮に、彼はまた頷いて、傍らの墓に目をやる。粗末な石が立てられているだけの墓であったが、綺麗に掃除されていた。鴉が言うには、彼を助けた娘の親族が眠っているのだという。 顔も知らない相手ではあったが、桃蓮は静かに両手を合わせた。 喋る鴉、九郎は彼の幼い頃からの友人であった。奇怪ではあるが、桃蓮にとっては大事な存在なのである。その友を助けてくれたのだから、彼にとっては感謝してもし足りないほどだった。娘の親族が眠るというのだから、その娘が墓参りに来た時に九郎を見つけたのだろう。それが誰なのかは分からなかったが、せめてもの感謝のしるしに、誰とも知れぬ死人へ小さく祈る。 黙祷している桃蓮を見て、なんやかんやと鴉と揉めていた木蓮もそれに倣った。鴉は翼をあわせるわけにもいかず、静かにそれを見守る。 祈りの間に流れる静寂へ、丘の下のほうから人々のざわめきと何やら造作している音が風に乗ってやってくる。耳にした彼らは一様に丘の下へと目を向ける。何事か思い出した鴉が濁声でつぶやいた。 「娘ッ子が言っておったわ。桜が咲くと、祭りをするんだそうな」 「祭りか……暢気なものだな。節は清明、育苗の時期ではないのか」 至極真面目な顔で言う桃蓮に、けらけらと木蓮は笑った。 「祭りは人心の支え、人々の安らぎとの習い。祀られるは汝が一族、良いではないか」 「あの様子じゃ、ただの馬鹿騒ぎじゃねえかねえ」 嘴で毛づくろいをしていた九郎が口を挟む。 「ま、いいだろ。それよか阿呆鴉も見つけたんだし、帰ろうぜ」 「……」 顔を僅かに曇らせる幼馴染に木蓮はまた笑った。 「ここと内結界は繋がってるみたいだから、また来れるさ」 だから帰ろうと再び促されても、桃蓮はしばし墓の前にしゃがみこんだままだった。地面に伏せていた鴉が彼を見上げる。幾分、心配そうに。 その墓の傍には、そこそこ歳をとった桜の木がその蕾をほころばせていた。木蓮は少し息をついてから、その木を見上げて幹に触れる。 「桜始開(さくらはじめてひらく)、か。見ごろはいつかねえ」 問いには答えず、手負いの鴉を抱えた桃蓮が漸く立ち上がった。それを目の端に捉え、首をこきり、と鳴らして木蓮は結界に向かって歩み始める。 「それじゃ、帰りますか。我らが『天狗』の里へ」 常人の姿とは言えぬ二人は、やはり常人とは言えぬ速さでその場から去っていった。まさに、風の如く。 |