天狗様が現れる以前は、そりゃあ酷かったそうな。
 作物は取れないし、取れてもばけものにめちゃくちゃにされる。税金はかかるし、生活は苦しくなる一方だった。老若男女構わずばけものに襲われて、泣きっ面に蜂って言葉じゃ足りないくらいだったのさ。
 こんな祭りなんて、開ける余裕すらなかった。いや、想像もできなかったというべきだろうか。

 だから、我々は感謝せにゃならんのだよ。




◆◇◆



 桜が僅かに咲いたのを契機に、村人たちは祭りの準備を始める。村の実りを山を守っている天狗に願うことがその祭りの趣旨であったようだが、実際は桜が咲いたことにかこつけて騒ごうというものだ、と幼いころから勇哉は思っていた。苗を植えるのを待ち構えている田を放り出し、毎年飲めや歌えやの大騒ぎである。母からは今年も豊作である様祈るものなのだと教わったが、実際に目の前ではしゃぐ大人たちを見ては、それは方便なのだろうと思っていた。
 確かに満開に咲く桜を見ると、無性に心が騒ぐ。齢にしてまだ十六になったばかりの彼にもそれだけはわかった。それに、お祭り騒ぎが嫌いなわけではない。むしろ彼は日々の労働から離れて皆と笑い合い楽しむこの祭りが好きだった。
 桜はあっという間に咲いて、あっという間に散る。ぼやぼやしていては時機を逃してしまう。放り出すとはいえ一応は畑仕事もやりながら、男たちは櫓を立て、女たちは料理や衣装の準備をする。勇哉も綾も、例に漏れることなくこの仕事に就いた。
 そして祭りは何も飲み食いして騒ぐだけではない。普段は畑仕事に追われている女たちは、この時期になるとめかし込むのだ。実のところ、勇哉自身もそれが一番の楽しみであった。以前長老から聞いた話によれば、天の村が天狗の守護に入ってからそんな余裕が生まれたのだという。
 天狗。
 彼らは土地を豊かにし、妖(あやかし)から人々を守っているという。大人や老人たちは殊更これをありがたがり、こうして祀ったりなどする。村はずれの社(やしろ)は彼らへの敬意を表すために建てられたものらしい。
 『天狗様』が現れる前は、土地は痩せていたし、必死になって作った畑はばけものに荒らされ、赤子もそのばけものに食われ、人々は辛い日々を送っていたと聞いている。今の暮らしが豊かなのかどうかは勇哉には分からなかったが、そんな時代があったことを伝え聞くたび、その違いがいまいち想像できないでいた。

 幼い頃はあまり疑問には思わなかった。大人たちが褒めたたえ、崇め奉るのを見てそれにしたがっていた。それが当然だと思ったからだし、考えたこともなかった。
 彼はその、天狗を見たことがない。彼らは妖の脅威から人々を守っていると聞くが、その妖すらもだ。

 昨日、村の桜が咲いた日。今度こそ夕餉に誘おう、そして祭りの後に一緒に会おうという約束を取り付けようと決意した勇哉は、綾の家に寄った。
 仕事を終えてぼんやりとしていたのだろう、彼女は少し疲れた顔で彼を迎えた。祭りのすぐ後が彼女の祖母の命日だけれども、彼女自身は毎年祭りを楽しみにしている。
「なんか元気ないな。祭りだぜ」
 湿気た顔をしてたら楽しめるものも楽しめない。彼女の祖母もきっとそうしろと言っただろう。そう伝えると、彼女は笑って頷いた。
「楽しそうにしているのを、祖母様も見ているかな。……天狗様も」
「天狗様ねえ……」
 出てきた言葉に、勇哉は僅かに顔をしかめた。
 幼い頃、彼女は祖母から天狗の話をよく聞かされていた。勇哉が長老から聞かされたのと同じように。しかし、彼とは違って綾は彼らを敬っていたし、愛してすらいるように見えた。祖母が大好きだったからなのだろうけれども。
 だから、彼はつい言ってしまったのだ。
「ほんとだと思うか?」
「本当って?」
 彼女は心底不思議そうに訊いて来る。
「――天狗様は本当に俺たちを守ってくれているのかな、ってさ」
「……どうしてそんなことを思うの?」
「だって見たことねぇもん」
 すこし眉根を寄せて問うて来る少女に、彼は口を僅かに尖らせて答える。見たことがないから信じないわけではなかったが、本当にこれが彼らの恩恵なのか、彼には実感がなかった。生まれたときからそうだったからだ。
 そんな様子の彼に、綾は呟くように言ったのだ。わたしはあるよ、と。
 それについてどんなだったか色々と尋ねたが、はぐらかされてしまった。とにかく天狗はいるよ、と言うだけで。
 あまり追求することでもないと思った勇哉はその後結局夕餉を馳走になり、そのまま帰って――

「あっ、しまった、誘うの忘れてた……!」
 思わず呟くが、がつんという音と共に指に激痛が走った。
「――っ痛え!!」
 たまらず声を上げて飛び上がる。思考に沈んでいたせいで手元が誤り、木槌で思いっきり指を打ってしまったらしい。哀れ左手の人差し指はみるみると赤く腫れ始めた。涙目になって指を押さえていると、それを見ていた周囲がどっと大声で笑った。勇哉と同じ年かそれ以上の若者たちだ。手を休めてお構いなしにげらげらと笑っている。
「おいおい、いくら祭りが楽しみだからって耽ってんじゃねえよー」
「なっ、だっ、ちがっ……それより薬、薬!」
 真っ赤になって否定する少年だったが、皆口々に唾でもつけとけ、さっさと働け、と取り合わない。そのうち笑っていた一人が近づいてきて肩を叩いてくる。
「しかしよ、いい加減どうにかしたらどうだ?」
「ど、どうにかって……」
「綾のことだよ、昨日も駄目だったみたいだけどさ」
「余計なお世話だ! って、お前ら俺をなんだと思ってんだよ」
 指に息を吹きかけながらも幼馴染たちを睨むと、彼らは口元に笑みを浮かせながら口々に言い出した。
「馬鹿」
「阿呆」
「間抜け」
「あれだよな、押しが弱いよな」
「腕っ節は人並み以上だが、他はなあ」
 言いたい放題の彼らに、さすがの勇哉も青筋を立てる。確かに幼い頃は年上の少年たちに散々苛められてきたが、いまやそれを打ち負かすくらいにはなっていた。昔のように苛めてはこないものの、小さな頃から共に暮らしてきた彼らはこうやって時折彼をおちょくるのだ。
「好き放題言いやがって……!」
「そりゃなあ――」
 話を続けようとすると、年かさの男がやってきて手を休めていた彼らをとがめた。
「おら、餓鬼ども! 手が止まってるぞ!」
 それに返事をしながらも肩をすくめて、彼らは櫓作りを再開する。ちらちらと勇哉を見ながら。

 そんな同郷の若者らは殆ど連れ合いができていて、来年一緒になるか、などという組もいる。そのせいか、勇哉とそして綾が一体どうなるのか、などというのが彼らの関心を買っているらしい。勇哉自身には全くもって余計なお世話であったが。
 しかし焦ることはない、と思っていた。このままでいたいような、そうでないような気持ちもあったかもしれない。
 綾もまた、幼馴染だ。つい一年ほど前までは同じ家で暮らしていたことすらある。今年が駄目でも、来年もあるし、再来年だってある。
(……とはいえ……)
 綾は何か別のことを気にかけているせいか、どうも自分のことをまるで意識していないようだった。関心を引こうとあれやこれやと誘ってはみたが、殆どが徒労に終わっている。
 どうにかしろ、といわれたとおり、はっきりと言えば分かるかもしれない。しかし、このままでもいいような気がしてしまう。
 彼女が気にかけていること。きちんとは聞いてはいないが、自分たちへの負い目なのではないかと時々思う。
 彼にとってあの少女は幼馴染であり、小さい頃は何度も助けられた。彼は幼い頃、近所の子供たちによく苛められていたのだが、それを庇ったり勇気付けてくれたのが、彼女だ。
 その彼女が祖母を失ったとき、助けてもらってばかりではいけないと思うようになった。
 まだそれには足りないのだろうか。
 悶々と考えをめぐらせていたせいで、勇哉はまた木槌で指を打つ羽目と相成った。




◆◇◆


 桜が咲くのもあっという間だったが、祭りの一応の本命であるはずの奉納はそれ以上に早く終わった。
 天狗から与えられたという印字を描き、野花で飾られた神輿を男たちが担ぎ、村を練り歩く。そして、綾の家とは反対方向の村はずれにある社へと奉納をする。
 それから後は、皆が待ちかねていた宴会が始まる。
 生まれた頃からずっとこの天の村で育ってきた綾は、馴染みの友達と共にそれを見守っていた。祭りの前は、その彼女らと共にその神輿の準備をしたり、その後の宴の料理を作ったりもした。
 皆祭りのために用意した綺麗な着物や、それぞれの母親から貰った装身具などを身につけ、簡単な化粧をして着飾っていた。遠くにあるという都の貴族ほどの着飾りは勿論できないが、小さな村の娘らができる精一杯のお洒落であった。綾自身も控えめであったが、同様だ。着物や装身具などの親の形見そのものは残っていたし、せっかくの祭りだからと勇哉の母親に色々と手伝ってもらった。

 綺麗に晴れた昼の日の下で村人らと共に奉納の儀を見つめながら、隣にいた一人が綾を小突いてくる。
「で、最近どうなのよ」
「どうって……」
 言われてすぐ、あの怪我をした鴉のことが頭に浮かんだ。しかし、これは皆には秘密にしている。
 今日の朝、例によって様子を見に行ったが鴉の姿はなかった。獣に襲われたのかとも思ったが、羽根が落ちていたり荒れている様子もなかったので、恐らく傷が癒えて飛び去っていったのだろうと思う。元気になったのだろうから喜ばしいことだが、いつも居る場所にいないという事実がなんとなく寂しかった。
 墓前には小さな野花がしずかに置いてあった。自分以外の誰かが置いたのか、或いは鴉が置いたのか。それは分からなかったが、少し嬉しかった。
 祖母の墓の傍にある桜はだいぶ開いていた。ここ数日の暖かい陽気にあてられて、目を覚ましたのかのように。正に、春の訪れだ。村の桜はもう少し早く、中心にある桜の巨木は今まさに満開であった。
「あんただけよー、年頃なのに、相手がいないのって」
「相手?」
 聞き返すと、皆呆れたように色々と言って来る。
「あいっかわらずウトいわねえ」
「勇哉はどうなのよ」
「勇哉? 何が?」
「……あれま、駄目ねこれは」
 目を丸くしている様子の彼女に、幼馴染たちは脱力したように肩を落とし、やれやれと首を振った。
「ご愁傷様、ってとこかねえ。可哀想ー」
「ねえ、なんなの」
「わからないならいいのよー! さあお祭りなんだから、楽しもう!」
 手を引いて宴会場のある桜の巨木がある村の中心部へと連れて行こうとする少女たちを見ながら、なお首を捻っていたが……ひらりひらりと舞い落ちてくる桜のはなびらと、やがて見えてきた巨木と宴会の風景を見て、まあいいかと頭の隅に追いやる。 彼女は桜の花も好きだったし、その下で楽しげに飲み食いし、喋る人々を見るのも、好きだった。
 彼女たちの言うように、今日は祭りを楽しもうと思った。