「綾ねえさま」
 少しばかり下のほうからかけられたかわいらしい声に、彼女は振り返った。
 思ったより少しばかり上の場所に、童が立っていた。切りそろえてもらっているおかっぱ頭に、くりくりとした目を輝かせている。頬が少し赤い。母親に着付けてもらったであろう綺麗な色の着物を着ている。
 綾は照れくさそうに笑った。
「華(はな)ちゃん、さま、だなんてつけなくてもいいのに」
「お母さんが、そう呼んでもいいって言ってるよ。兄ィも」
 華は勇哉の妹で、子守をしてきた綾を本当の姉のように慕っていた。一年前、彼女が離れて暮らすことになったとき、泣いて彼女を止めたのはこの童だった。
「二人とも、そんなこと言ってるの?」
 少しくすぐったい思いをしながら彼女は笑う。彼らは、彼女と家族のように接してくれる。嬉しくないわけがない。
「はなね、お料理の手伝いをするようになったの。お祭りが終わったら、うちにきてくれる?」
 彼女はまだ少し舌足らずの声で、上目遣いに綾を見て首を傾げてくる。その仕草に少し笑ってから頷いて、その頭を撫でた。こんな風にお願いされて、断れるわけがなかった。
「いいよ。はなちゃんとはなちゃんの母上様のお料理、食べてみたいな」
 明日か明後日の夜がいいかな、と言うと、華はぱっと頬を朱に染めてその瞳をさらに輝かせた。
「うれしい! きっと兄ィも喜ぶよ!」
 彼女が母親の元に駆け出していく後姿を見送りながら、再三彼女を誘っていた兄の勇哉を思い出した。彼はどうしたかなと思い、周囲を見回す。祭りの宴はまだ始まったばかり。羽目を外した男たちは、とっておきの酒をどんどん出して浴びるように飲んで大騒ぎである。丹精込めて作った料理がちゃんと口に運ばれているか全くの謎だ。
 その中に勇哉がいるのが見えた。同年代の若者たちと飲み比べの真っ最中である。なんとなく自棄っぱちになっているような気がしないでもない。
 でも、楽しそうだ。
 それが嬉しかった。彼は小さい頃、気が弱くていつも苛められ、そのたび綾が彼を庇っていた。反対に気が強かったその頃の彼女は、逆に年上の少年に仕返ししたりしたものだった。同年代の男の子たちとあまり馴染めず、一時期少し心配したりもしたが、今はああしてとても楽しそうにして彼らと飲んでいる。
 同時に寂しいような気がすこし、した。
 綾は首を振る。小さな頃と今は、違う。
 それに湿気た顔をしていては楽しめないと言ったのは彼だった。
(祖母様)
 目の前には幼馴染たちが綺麗に着飾って、料理や酒を楽しみながらおしゃべりをしている。たわいのないことばかりだけれども、皆でこうして話すのはにぎやかで楽しい。華と話して少し輪から外れていた彼女は、再び少女たちの話に加わった。
(わたしは、元気にしているよ)



◆◇◆



 気が付けば、もう日はとっぷりと暮れていた。宴は昼の奉納のあと、夜を徹してなされる。彼もその輪の中に混ざって男たちと散々飲み食いしていたのだが、周囲が暗くなり始めるとひとり、またひとりと姿を消し、ついには若者は勇哉ひとりとなってしまった。皆連れ合いと共にいずこかに行ってしまったのだ。とは言っても、さして大きくも広くもない村の中。その何処かにはいるはずであったが。
 今は大桜の下には老人やすでに夫婦となっている者たちの姿しかなく、時間も経って若者たちも消えたその場は割合静かであった。宴は終わりに差し掛かっている。

 てっきり綾も自分と同じようにぽつねんと取り残されてしまっているのではないかと見回したが、そこにはいなかった。まさか、ととんでもない考えが頭の中を駆けずり回って一瞬大混乱に見舞われたが、狭い集落で自分の知らないところでまさかそんなはずはあるまいと必死でそれを振り払った。
 満開の桜を見上げる。夜の空に浮かび上がっている白い桜は、心をも浮つかせる。ひらりひらりと花びらが彼の元にやってきた。
(俺は酔っ払ってるんだ)
 そう言い聞かせる。いつもより多く飲まされたし、いつもよりきつい濁り酒を飲まされたように思う。そうでなければ、そんな阿呆な妄想が浮かぶはずがないのだ。
(なら、もうちょっと……)
 頭に浮かんだ真なる『妄想』に今度はにやけてしまう。やはり酔っている。
 うっかりしていて少女を誘い損ねていた青年は、やや沈静化した宴の輪から離れ、村の中を歩き出す。少女を探すためだ。酔っ払っていた彼は、誘い忘れたからといって会ってはいけない道理はない、などと常にはない割と大胆な思考になっていた。別の誰かと会っているのでは、という想像を一瞬してしまったことは都合よく忘れて、その足取りはたいへん強気であった。やや、おぼつかない様子ではあったが。
 ゆったりとした宴の香りを漂わせている周囲はそんな彼に気を留めることはなかった。春のすこしばかりゆるい風が吹き、満開の桜がちらり、と花びらを舞わせた。

 村中に篝火が焚かれ、常より周囲は明るい。夜鳥の声が村の向こうの森から聞こえてくる。いい風も吹いてくる。良い夜だった。夜空にはあと少しで満月といった中途半端な月があるのが玉に瑕だったけれども、悪くはない、と半ば麻痺した頭で少年はその夜を評した。
 探し人の姿はない。ほどよく酔っていた勇哉は、ほどよく気を大きくして綾を探し、ついには村はずれの社にまでたどり着いていた。昼に神輿の奉納をした場所だ。
 綾の家とは反対の方向にある場所に何故足が向かったのか、酔っている彼にはよくわかっていなかった。
 いつの間にか草鞋(わらじ)を失くしていた彼は、酔っていたので若干千鳥足のようではあったが、踏み慣らされた道では殆ど足音をたてずに歩いていた。
 だから、彼はたまたま聞くことができたのだろう。
「天狗様が、巫女を欲していると」
 少しばかりくぐもった声を耳で捉えて、勇哉は歩みを止めた。
 社の鳥居の向こう。御神体が祀られている小さな『本殿』は僅かに戸が開いており、そこから光が漏れていた。声もまた、そこから発せられたものらしい。
 思わず息を潜めてしゃがみこみ、彼は設けられている石畳をひたひたと歩いて本殿に近づいていった。
 『本殿』は普段は開けられることはない。そこには天狗様より授かったという大事な『なにか』が納められており、年に一度の奉納の時だけ開くことが許される場所だった。幼い頃何が入っているのか知りたくて何度か開こうと悪戯をしたものだが、悪戯に関してはそこそこ寛容だった大人でさえも『それ』だけは厳しく彼らを叱った。
 結局のところその本殿の御神体を見ることができるのは神主をも務める代々の長老だけで、勇哉のような子供には許されていなかったのだ。
 それが開いている。
 幾人かの人の気配がした。今の声は村の実力者……つまり、広い土地を持ってる人間……の一人のものだった。ほろ酔いの彼には分からなかったが、あの場にはいないでここで飲んでいたらしい。
 勇哉は別に大人たちほど『天狗様』を信奉しているわけではなかったが、それについて厳しい彼らが何故こんなところに、しかも御神体の面前で飲酒などしているのか。彼には分からず、声をかけてよいものかも分からない。ただ密かに彼らの話に耳を寄せた。話を聞いてみて損があるわけでもないだろう、そう思った。
「数十年ぶりだな。喜ばしいことだ」
 本殿にいる者の一人が声を弾ませて言う。
「天狗様のお告げだ。使者が朝方参られ、綾が候補として上がった。
 十六の、まだ乙女といえば、綾しかおるまい」
 長老の言葉に、勇哉の身体の何もかもが一瞬、止まる。
 何故綾の名前が出てくるのか皆目見当が付かない。

「天狗様の巫女が我が村から出るとは、なんたる誉れ。
 ようやっと、あの子が役に立つわけだな」
(どういう……ことだよ。巫女? なんだそれ)
 頭が真っ白になった。酔いなど当然のように吹っ飛ぶ。
 そのまっさらな頭になだれ込んできた巫女という未知の言葉。湧き上がる思考の渦がそれをかき乱し、先ほどより遥かに混迷を極めていた。
 そんな様子だったせいか、勇哉は自分でも気付かないうちに近づきすぎていたようだ。扉の正に目の前まで歩を進めており、うろたえた彼は本殿の古い板の間を僅かに踏み抜いてしまった。
 遠くのちょっとした人々のざわめきと夜鳥の声程度しか音のない社の夜には、それは充分響くものだった。
「誰だ!」
 中にいる者たちが一斉に立ち上がる音を後ろ頭で聞きながら、勇哉はその場から逃げるように走り去った。無我夢中で。

 慌てたように男らが本殿から出てきた時には、逃走者は最早夜闇に紛れて彼らの眼には捉えきれなかった。
「ありゃ、勇哉だな」
 一人が言う。
「聞いていたようですな……」
 周囲を鋭い目で見渡しながら戻ってきた男に、天の村の長は白髪交じりの顎鬚をなぞりながら静かに言う。
「聞かれたのなら仕方がない」
「しかし……」
「知った綾が、逃げ出すことは……?」
 別の男が少し焦ったように言う。それに大きく頷いて、実力者の一人が腕を組み低い声で続けた。
「よりにもよって勇哉だ。あいつァ、餓鬼の頃は気が弱かったが今は立派な男だ。何をしでかすか分からんぞ」
「放っておけ」
 杯の僅かに残った酒をあおりながら、村の長老であり、神主でもある男は静かに言う。彼は他の者とは違い、立ち上がってなどいなかった。尚も言いつのろうとする男を空いた手で制して続ける。
「天狗様のさだめは誰にも変えられんよ。どう足掻こうと、な……」
 薄暗い本殿の中。札が幾重にも貼り付けられた箱が、神棚に静かに置かれている。長老の視線にあわせて、その場にいた男たちは一様にそれを見つめた。
「それに……明日には皆も知ることだ」