月が見える。これは偽りの月だろうか。
 いや、もはやそんなことは『どうでも』よい。
 上手く入り込めた。そのための犠牲は多かった。自身もひどく弱った。
 情など必要がない。獣になれ。そう、獣になるのだ。皮を引き裂き、肉を噛み千切り、骨を噛み砕き、そして脈打つ心の臓を握りつぶす。
 虫の息すら認めない。まさに息の根を止めなければならないのだ。そして我が物としてしまえばいい。そうすれば、傷ついた体も癒され、力も増すだろう。
 ああ、巫女はどこだ。

◆◇◆




 春の夜の風は、まだ冷たい。酔いが吹き飛んでいた勇哉は、夜闇のなかでひとりたたずむ探し人を見つけた。村はずれにある彼女の家の側の、小さな池のほとりだ。昼間は子供らの格好の遊び場なのだが、彼らが寝静まった夜は関係がない。ここには松明が数えるほどしかなく、桜の大木がある中心よりは暗い。そして、静かな場所だった。彼女はその池のそばに座り込んで、あの中途半端な月を見上げていた。
「ここにいたのか、綾」
 声をかけると、少し驚いた顔をして少女が振り返った。祭りのためのきれいな衣装が火で赤く照らされている。
「どうしたの?」
 そう言われて、勇哉は急になんと答えればいいか分からなかった。一瞬言葉に詰まってから、口に手をあてて答える。
「えーとほら……姿、見えないなと思ってさ」
 なんでもないんだよ、と言いながら、勇哉は彼女の隣に少し間を空けて座る。少女は笑ってから、またゆっくり月を見上げる。
「皆何処かに行っちゃったから、わたしはもう休もうと思って」
 勇哉も彼女にならった。酔っていたときの彼は、なんとも中途半端な満ち具合だと感想を抱いたものだが、「きれいだな」とぽつりとつぶやいた。
 いつもより言葉少なな幼なじみを不思議に思ってか、少女は眉を小さくひそめて見る。
「……本当になんでもない?」
 勇哉は答えられない。ただ、彼はとても嫌な予感がしていた。
 村長(むらおさ)たちは、彼女が巫女に選ばれたのだと言っていた。酔っていた頭でもはっきりと聞こえたし、鮮明に記憶に残っている。
 彼女が、いなくなってしまうのではないだろうか。しかし彼は、この期に及んでも何も言えないでいた。
 独り静かに月を見上げる彼女を目にして、果たして言っていいものか、わからなくなったのだ。今の状態は、先ほどまでーー村長たちの話を聞くまでーー彼自身が願ってもないものだったはずだ。それなのに、いざとなると口が鉛のように重くなってしまう。
「――なんでもない」
「変な勇哉」

 心を落ち着けようと暫く黙って池を見つめる。村の中央にある桜から風で流されてきたのだろうか、水面にはちらほらと白いものが浮かんでいるのが見えた。あるいは、綾の家のそばにある桜から流れてきたものかもしれない。
 そうやってゆらゆらゆれる花びらを眺めていると、しかし、と別の思考がどこからか首を擡(もた)げてきた。
 彼女を手にする機会は、もう残されていないのではないか。巫女というのは、神の子、神の花嫁のはずだった。それくらいはさして学もない勇哉にも分かった。巫女は男とは結ばれず、神と結ばれる。神、すなわち天狗らのものになるということではないか。
 ――いやだ、そんなの。
 殆ど反射的に答えを出していた。そうだ、何をためらうことがあるのだろうか。
「なあ」
 勇哉がゆっくりと立ち上がると、草がざわりと音をたてた。傍らの少女は彼を見上げる。
「俺と夫婦(めおと)になる気、ないか」
「え……?」
「ほら、天の村の若い衆で余りものって俺とお前だけだし、俺たちが夫婦になるんなら親父もお袋も反対しないだろうし、華(はな)なんか姉さんができたって喜ぶに違いないし」
 思ってもいない言葉がするすると出てきた。ここまで言っておいて、どうして肝心な言葉が出てこないのかと自分でも情けなくなってしまうが、とまらない。
 あらかた言うことがなくなってから、少年はゆっくりと少女の顔を見た。薄い月明かりと、仄かな松明の光に照らされた彼女は戸惑った様子を隠しきれずにいる。
「いまは、よくわからない」
「駄目、ってことか」
 俺じゃ駄目なのか、という呟きに、「そうじゃない」と綾は慌てたように首を横に振って立ち上がった。
「突然のことで……思ってもみなくて」
 その何気ない言葉に、勇哉は少し傷ついた表情を見せた。彼は彼なりに、ずっと好意を示してきたつもりだったのだ。人にはそれでは駄目だと言われて来たし、彼自身もあまり通じていないとは思ってはいたが。
「だって、ちょっと前まで泣きべそかいてたじゃない、勇哉」
 落ち込むように地面を見つめていた少年は、その言葉に顔を上げた。それは聞き捨てならないといった様子で、頬を赤らめていたが、薄暗い月夜では相手にはそれはわからなかった。
「俺はもう泣き虫じゃないんだ、綾」
 語気を強めて、少女に近づいて腕を掴む。掴まれた方はあまりのその力強さに、掴んだ方はその細さに驚いた。
「俺は、ずっと考えてた。ずっと、お前を、」
 上手く続けられなくて、勇哉は言葉を飲み込む。
 薄い月明かりでも見える。彼女の黒い瞳が、揺れている。怖がっているのかもしれなかったが、手を離したくなかった。
「そのうち、お前は何処かに行ってしまうのかもしれない。そう思うと……」
 今すぐ、手に入れなきゃならない。何が何でも。
「勇哉……?」
 不意に黙り込んだ少年に、綾は首をかしげる。いつもの彼らしくない様子にひどく戸惑っている。



 再び沈黙が訪れるが、今度それを破ったのは勇哉でも綾でもなかった。
 突然強い風が吹き寄せてくる。草木が揺れ、眠っていたはずの鳥が騒ぎながら何羽も木々から飛び出してきた。小さな光になっていた松明はあっという間に消えうせ、不意に暗くなった。驚いた勇哉はとっさにそのまま綾を引き寄せる。
 先ほどまで慣れていた空間が一気に暗くなった。何がおきたか分からず混乱していたが、虫の声が消えていることに気づき、勇哉に抱き寄せられながら綾は周囲に耳をそばだてた。

 獣の声。

 獲物を見つけたときのような、低く、うなるような声。人の声ではない、異様な気配があった。
 少年も気づいたようで、綾の肩を掴む手に力を込める。少女は声を立てず、息を呑んだ。
 ゆっくりと勇哉は抱き寄せていた少女を自身の背後に行くように促した。視線はうなり声の聞こえた……池の向かいにある茂みの奥に向けられている。
(逃げて、親父たちに伝えてくれ)
 小声でそう伝えると、綾は激しく首を振って、幼馴染の粗末な着物の袖を掴んだ。一人残すなんて危ないことはできるはずがない。逃げるなら一緒に、と掴んだ袖を更に握り締める。
 狼か、熊か。どちらにしろ鋭い爪や牙を持った獰猛な生物が向こうにいることは間違いがない。綾も勇哉も生まれてからそんなものに出くわしたことがなかったが、話くらいは聞いたことがある。
 勇哉は歯を食いしばり、首を振って彼女を払いのけ、行くようにさらに促す。身を守るものは何もない。一歩でも動けば、相手は飛び掛ってくる。逃げられる自信もない。
(俺が囮になる、その間に……)
 しかし、『獣』は彼らを待ってはくれなかった。それは声を上げて草むらから飛び出してくる。
 とっさに少女を抱え込み、勇哉はその場から転がって襲撃を避ける。
「逃げろ、綾!」
 立ち上がり、木切れを拾って対峙しながら、勇哉は叫ぶ。しかし綾の足はすくんで動かない。
 月明かりに照らされた獣の姿は、まさに異形だった。今まで見たことのないいきもの。
 口から顎にかけて生えている長い牙と、獲物を逃がすまいとする真っ赤に充血した目がぎらぎらと光っている。口からは荒い息とともにぬらりと光った涎が足れている。
 それは、確かに彼女を見ている。この世のものとは思えぬうなり声をあげて。
「綾!」
 少年の呼び声にはじかれたように立ち上がり、綾は走り出した。集落とは、逆の方向に。
(くそ、こんなときまで!)
 黒い獣は形容もできない鳴き声をあげ、少女の後を追う。勇哉は舌打ちして石を拾い上げ、獣に向けて投げつけた。黒く長い毛に包まれた身体に確かに命中するがしかし、獣は勇哉に目もくれない。後を追うように勇哉も走り出した。
「ばけものめ! こっちを向け!」
 石を際限なく投げつけるが、一向に功を奏した様子はなかった。
 あっという間に綾の家を通り過ぎ、墓を駆け抜け、その裏にある森に入ってしまった。獣の動きは速い。体力がまだあるぶん勇哉はなんとか追いついていたが、追いかけられている綾がこれでは保たない。
 焦った勇哉は視界の端に移った槍ほどの長さの枝を拾い上げ、再び獣に向けて投げる。びゅんと音をたてて飛んでいったそれは、木々に邪魔される事なく獣の身体に見事に突き刺さった。
 ようやく後から追いかけてくる人間の存在に気づいたのか、獣は立ち止まって勇哉を振り返った。
 やったと思った瞬間、獣は彼の視界を占めていた。

「勇哉!?」
 悲鳴を聞いて、綾は走りながら振り返った。暗い森の中は月明かりもろくに届かず、何も見えない。しかし、足音が明らかに減っていた。背筋が恐怖で凍った。今度は、自分の番だ。
 体力は限界に来ていたが、それでも走らなければ食われてしまう。しかし、ついに足をもつれさせて綾は森の腐葉土の上に倒れこんだ。逃げなくては、できるだけ遠くに。そうは思っても、息もまともにできず、足にも力が入らない。
 なんとか立ち上がろうとしているうちに、背後から草と枝を踏みつける音が聞こえる。そして、荒い獣の息づかい。
「ひっ……!」
 振り返って、綾は後ずさった。追いつかれた。
 あたりは暗闇と静寂に包まれていた。獲物を捉えた獣は、ゆっくりと近づいてくる。少女はもはや、がたがたと震えてじりじりと下がる事しかできなかった。獣の真っ赤な目に見入られたかのように。
 咆哮をあげ、それは飛びかかってきた。
 目の前が、真っ赤になった。