真っ赤になった視界の中で、しゃん、という鈴の音が鼓膜を優しく撫でた。
 一瞬気が遠くなって、それからゆるゆると視界の色が抜けて行く。やわらかい光が照らされているのが、閉じた瞼を通しても分かった。
 それから、どう、と何かが倒れる重い音が地面を通して身体に響いた。
「結界が歪んだと思って来てみりゃ……」
「妖か……」
 何が起きたか分からない。見知らぬ声ふたつに目を開け、おそるおそる顔を上げる。薄暗い森のなか見知らぬ人影がふたつ。そのふたつの間には、黒い固まりがうずくまっているのが見えた。先ほどまで感じていた禍々しい気配はもうない。しかし、固まりが何なのかわからず、ひどい耳鳴りがした。
「女、怪我はないか」
 それに気付いた一方が歩み寄り、屈んで綾の様子をうかがった。暗くて容姿はよくわからないが、男だ。近寄られて一瞬肩を震わせかたくしたものの、すぐに先ほどまでの状況に思い至った。
「ゆ……勇哉が!」
 自分は化け物に勇哉と一緒に襲われたはずだ。彼は無事なのか。あの固まりがそうなのか。声が震えてうまく言葉にならない。
「安心しなされ、連れの男は生きてるよ。お嬢ちゃん」
 もう一方の男が明るい声で言って来た。うすい色の髪なのか、暗闇でも妙に目立つ色合いの髪を持つ男だった。
「手当をせねばな。近くの村の者か」
「薬……薬を」
 手当をしなければ、と言う言葉から、勇哉はきっと怪我をしているのだろうと思った。暗くて視界が効かないぶん、血の臭いが鼻をつくような気がする。震える手でなんとか懐から手持ちの傷薬を出そうとするが、近くにいた方の男はそっと手を掲げてそれを止める。
「無駄だ。その程度では焼け石に水だろう」
「で、でも!」
 綾はその言葉にぞっとした。大けがということではないか。
「落ち着け、とにかく止血する。何か布は」
 着物のなるべく綺麗な部分を探すが、触れてみればどれも泥にまみれているようだった。止血には清潔な布が必要のはずだが、これではいけない。まごついていると、何かを引き裂く音がした。男が自分の着物の袖を割いたらしい。驚いて隣の男を見上げるが、彼は気付いた様子はなかった。
「代わろうか?」
「いや。このくらいなら俺にも出来る」
 青年の言葉の後すぐに、ほのかな光が彼を中心として広がり、ふわり、と優しい風があたりを包む。
 何が起きたか分からなかったが、一瞬、とても見覚えのある光景のように思えた。そして、その一瞬。一方の男の髪色が見えた。
 光が消えるのと同時に、血のにおいがいくらか薄れる。
「これで大丈夫なはずだ。二、三日寝ていれば治るだろう」
「ゆう、勇哉!」
 立ち上がって勇哉の元に駆け寄ろうとしたが、うまく立てなかった。完全に腰が抜けてしまっていたらしい。
 ――怖かったのだ。
 ばくばくとなる心の臓を押さえ込むように胸に手を当て、綾は深呼吸をした。
 それを尻目に、二人の男らは会話を進める。
「で、どうする? ここらに村があったとは思えないんだけど」
「たぶん、九郎のいたあの村だろう。この時間まで外にでていたのだから、例の祭りだったのではないか」
「まだ綻びたままなのか。いくらなんでもひどいな」
「後始末もせねばならん。応援呼べるか」
「呼んだ。あの小僧がすっとんで来るんじゃないかね」
「そうか、ならその話はあとだ。彼らを里に連れ帰るわけにも行かぬ。綻びが残っているならむしろ今は都合がいい」
 男たちが一体何の話をしているのか分からない。だが、不思議と警戒感は呼び起こされなかった。
 彼女は命の危機から脱したこと、勇哉がとりあえず無事だということで、気が抜け切っていた。だから、話が終わったらしい青年の一人が彼女の傍に膝をついて顔を覗き込んだことに気付くのが、遅れた。
「立てるか」
「!」
 覗き込むのは金の瞳だった。見たことのない瞳の色を、どのように形容したらいいか綾は分からない。細い虹彩が僅かな光を浴びて光っている。まさに異形の瞳であったが、ひどくきれいな目だな、と思った。
 惚けたように黙った綾を不審に思ったのか、わずかに男が首を傾げて様子をうかがったのに気付いて、少女は礼をいいながら立ち上がろうとした。
「あ、あの、たすけてくだすって……」
「礼はいい。住まいまで送ろう。おまえの村の名は」
 手で制され、思わず出かけた礼の言葉がこぼれ落ちてしまう。代わりに出てきたのは、問われた答えだった。
「……天の村」
 そうか、とつぶやいてから、何の言葉もなしに彼は彼女の脇と膝に手を差し入れ、抱き上げる。
「! な、ちょ」
 突然のことに言葉にならない。抗議の言葉が形づけられる前に、彼女は均衡を保とうと反射的に彼の首に抱きついてしまっていた。抱き上げられるなど、小さな子供のころだって数えるほどしかない。ましてや異性になど。せっかく深呼吸で落ち着かせていたのに、次々と起こる事態と体全体に伝わる知らない感触に目が廻りそうだった。彼女を抱える腕は力強く、触れる胸板はかたい。暗がりではよく見えなかった彼の髪色が目の前に迫っている。わずかに知らない香が鼻腔を刺激した。大混乱であった。
「ちっ、狡いやつめ」
 薄い髪色のもう一人の男が勇哉を抱き上げながら舌打ちをしている。もっとも、こちらは荷物を肩に担ぐような形であったが。
 抗議じみた仲間の声を無視して、赤い髪をした青年は言う。
「無礼は承知の上だが、この方が速いのだ。許せ」
 そう言って、有無を言わせず彼らは暗闇の森の中を跳び上がった。




◆◇◆




 桜が咲いている。
 音はない。風も凪いでいる。それでも、散った桜の花びらがひらひらと地上に舞い降りている。
 辺りは桜の木ばかり。春も始まったばかりだからか下草の背も低い、そんな桜の林。どこも同じように、薄紅色、あるいは薄墨色の桜を咲かせ、散らしている。
 そのなかでひときわ目を引く色があった。
 赤い桜。
 その色は、薄紅の絨毯に流れる血のような色だった。
 その下で、ちいさな子供がひとり、泣いている――




◆◇◆



 まず知らない天井が目に映った。
 定まらない視界のまま起き上がる。するりとほどけている黒髪が流れた。綾は首を振って周囲を観察する。寝かされている布団は自分の家の薄いそれとは雲泥の差で、やわらかく、あたたかい。部屋は広く、がらんとしている。
「ここは……」
 何の覚えもない場所だった。何故こんなところで寝ていたのか、すぐには思い出せない。
 戸は閉められているが、わずかに差し込む光が今は昼間だと告げている。たしか、夜。互いの顔さえ見えない闇夜のなかで、ばけものに襲われて――それから。
「目が覚めたかしら」
 聞き覚えのある声とともに、光とは反対側の方の戸が開く。
「奥様!」
 戸の開いた向こうから現れたのは、綾の住む天の村の長の妻であった。
 彼女が言うには、ここは村長の家の客間らしい。その家は村一番大きな屋敷で、一間しかない綾の家が何個も入るほどの広さだ。
 綾は昨晩家の前で倒れていたらしい。
 勇哉はどうなったのかすぐさま気になって訊ねたところ、
「一緒に怪我した勇哉も倒れていてね。今は家に寝かされているようよ」
 とのことだった。綾の家は世話をする者がいないから、とりあえずここに運び込まれたのだという。
 ともあれ、勇哉は無事らしいと聞いて、胸を撫で下ろす。ひどい怪我をしていたから、命を落としたのではないかと心配していたのだ。早く会って様子を確かめたい。
 そう思って、布団から出、衣服を整える。そして礼を述べて家を辞そうとしたのだが、妻に止められた。
「たいへんなことがあったんでしょう? ゆっくりしてお行きなさい」
 確かに、大変なことがあった。見たこともないばけものに襲われて、勇哉は怪我をしてしまった。なんとか逃げ切れたけれど、とても怖かった。目が覚めてから経緯は彼女に話したから、それを言っているのだ。
 だから、彼女の言うことは綾にとってはとても有り難く、嬉しい申出であった。
「でも、私は怪我もしておりませんし、いつまでもお世話になっているわけにもいきません」
 ただでさえ、綾は色々な人の世話になって生きているのだ。怪我もしていなければ、塞ぎ込んでもいないのに、こんなところで休んでなどはいられない。何が起きたかは話したし、ばけものが出ているのならむしろ、皆に早く知らせねばならない。
「それはできない」
 部屋にいた妻とは別の低い男の声が響き、驚いて戸口を見る。
「おまえさま」
 そこには、いつの間にやって来たのかこの家の主……綾もよく知る村長が立っていた。壮年の彼は、険しい顔でこちらを見ている。いつもは比較的穏やかな顔で村の者たちを纏めているのを知っている綾は、ここではじめて違和感を覚えた。戸は一つしかない。どうして、無傷のはずの自分はこんなところにいるのだろう。
「私は、もう元気なので、家に」
「もう、お前はあの家には帰ることはないだろう。沙汰が出るまで、お前にはここにいてもらう」
 彼女の言葉を遮った村長の態度に、ますます嫌な予感がつのる。
「おそれながら、おっしゃる意味がよく分かりません……」
 突然の物言いに声を震わせる少女に、彼は静かに告げる。まるで罪を告げるかのように。
「巫女に選ばれたのだ、綾」