嫌な夢を見た。
 汗をぐっしょりかいた身体で起き上がった彼は、まずそう思った。
 ……でも、何の夢だったろうか。
 自室の中は、まだほんのりとうすくらい。
 カーテンの隙間から、遠慮がちに青い光が差し込んでいる。
 もうすぐ朝だ。
 日が山から離れきるまで、彼は眠れなかった。
 かといって起き上がるでもなく、寝たままぼんやりと天井を見上げていた。
 青い光は、段々と明るさと黄色を帯びていく。
 彼は蒲団の中で小さく震えた。かいた汗が冷えて、少し寒かった。



 いつも起きる時間より少し早かったが、彼は寝台から起き上がった。
 寝巻きを脱いで、普段着に着替える。
 そして、洗面をすべく部屋を出て、下の階に下りていった。
「あ、坊ちゃん。おはよう御座います」
 階段を下りてすぐ、金髪男に出くわした。
 長い金髪をゆるく後ろで束ね、大柄な身体で、服の上にエプロンを身につけていた。
 そのいでたちはまさに家庭的な姿であったが、穏やかな微笑みのすぐそばにある頬の十字傷がその雰囲気をこっけいなものとしていた。
「あ…おはよう、グレミオ」
 幾分かすれた声で彼は返し、軽く咳払いをする。下の階はシチューの匂いが漂っていて、彼は胃が痛くて嫌な気分になった。
「今、起こそうかと思っていたんですよ」
 そういいながら、グレミオは台所に戻っていく。
 彼も洗面をする為に台所に入った。案の定、そこにはシチューがぐつぐつと音を立てている。
 その横で、グレミオはとんとんと野菜を刻んでいる。
 鼻をつまみたい思いを我慢して、グレミオの横で彼はまず歯を磨いた。
「今日は、坊ちゃんの初の皇帝陛下との謁見なんですよね…」
 口をゆすいで、歯ブラシを元に戻している時、グレミオは神妙な面持ちでそう言った。
「ああ…うん、そうだね」
 一瞬何を言われたのか分からなかった彼は少し反応が遅れた。まだ頭がしゃんとしてないようだった。
 早く顔を洗いに行こうと思い、タオルと石鹸、洗面器を手に持つ。
 しかし、グレミオはそれに気付かない様子で、包丁で野菜を刻んでいた手を止めてつぶやいた。
「緊張します…」
 何故当人でないグレミオが緊張するのか、少し分からない彼は、小さく首をかしげたが、「うん」と頷いてそれに答えた。
 そして、そのまま勝手口に向かう。
「顔洗ってくるよ」
「あ、はい。ああ坊ちゃん、タオルと石鹸と洗面器、持ちましたか?そこにおいてあるんですが…」
「持ってるよ、それくらい…」
 グレミオは、相変わらずだ。
 半ば呆れた声で返しつつ、彼は外に出た。
 まだ少し早い時間であるせいか、家の外の街は朝もやがかかっていて、薄ぼんやりとしていた。
 人影も、ほとんどない。鳥の声だけがする静かな朝だった。
 少し、寒い。  もうちょっと着てくればよかったな、と思いつつ、彼は井戸から水をくみ上げ、その冷たい水を思いっきり顔に叩きつけた。
 それで頭を一気に稼動させようとした。
 バシャバシャと、静かな朝に水音が響き渡った。顔と手が冷たくて、洗うのを辞めたくなりそうだったが、我慢した。
 だが、一通り洗い終わって顔をふいた後、彼はあくびをしてしまった。まだ眠いらしい。
 溜息をついて、目を擦りながら台所に戻り、彼はグレミオに尋ねた。
「父さんは」
「もう起きていらっしゃいますよ。今はお部屋に」
 グレミオは先ほどと変わらず落ち着きがない。
「そっか」
 彼の父が彼より遅く起きるはずがない。彼は苦笑した。
「坊ちゃん、朝食のしたくは出来てますから、もう食卓についていてくださいな」
 グレミオがシチューとは別の鍋をかき回しながら言った。
「あ、うん。父さんにも言ってこようか」
 彼が気を回して言うと、グレミオは幾分すまなそうな顔をした。
「……すみません、お願いします」


 今日は、グレミオが言っていたとおり、皇帝陛下に初のお目見えだ。
 グレミオが、当人でもないのに一人勝手に緊張しているのを見ると、そこまで緊張感が湧いてこなかったのだが、
 こうして一人確認していると、自然と胸がしまるような緊張感を覚える。
 そして明日は、父が北へ遠征に出かける。しばらく、帰ってこないらしい。
 父がいないのは慣れっこだが、やはりこの年になっても寂しいものは寂しい。
 ――今回は、どれくらいかかるんだろうか。
 彼の家は、少し広い。
 父の部屋に向けて廊下をゆっくりと歩きながら、彼はそんなことを考えた。
 そのうちに父の部屋の前についた。ノックをして、返事があったのを確認してからドアを開く。
 その動作をしながら、以前、ノックもせずにクレオの部屋に入って散々しかられたことを何となく思い出した。
「父さん、おはよう」
「おはよう、ヴェル」
 爽やかな、それでいて野太く力強い声で、彼の父、テオ=マクドールは息子にあいさつを返した。
 ゆったりとした普段着で、これから部屋を出ようとしていたのか、いすから立ち上がりかけていた。
「朝食か」
「うん。食卓についてくれって、グレミオが」
「そうか。じゃあ、行くか」
 彼は父と一緒に部屋を出た。
「今日は珍しく早いな」
「そう…だね」
 彼は欠伸をしそうなのを必至で堪えながら答えた。
 息子の堪えている様子を少しおかしそうに見ながら、父はまた尋ねる。
「緊張しているか」
「うん。…多分ね」
 彼はすこし首を捻って言った。緊張しているというより、余り実感がないといったほうがよかったかもしれない。
 そう思い直した。
 それから、グレミオが一人で緊張していたのをまた思い出して、笑いそうになった。
 台所からは、シチューのいい匂いがする。






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