「ぼ、ぼぼぼぼぼっちゃああああん!」

 彼は、帰ってくるなり響き渡ったグレミオの絶叫で耳を塞がねばならなかった。
 考える前に耳を塞いだまま戸口から少し左にずれて、次に来る事態に対抗すべく身を縮めた。
 台所から飛び出してきたグレミオは、あきれる彼の父の横を通り過ぎて戸口に突進してきた。既に左にズレていたので、衝突は避けられた。
「坊ちゃん! ああ、グレミオは心配で心配で…! いかがでしたか!? 皇帝陛下の前で何か粗相はなさいませんでしたよね?!」
 恐らくシチューをかき混ぜていたであろうおたまを振り回して、グレミオは泣き出さんばかりに騒いだ。
 うるんだ瞳がのっている顔の頬には、大きな十字傷。
「だ、大丈夫だよ、グレミオ! ね、父さん」
 おたまが制服に当たらないように気を配りながら父に助け船を求めるように視線を向けると、少し眼を見開く。俺に振るなと言わんばかりだ。
「う、うむ。初めてにしては、わが息子ながら立派な立ち振る舞いだったぞ」
 本当は、緊張してガチガチだったのだけれども。そして、父がそれに気付かなかった筈がなかったのだけれども。
「……ありがとう、父さん。な、だからグレミオ……落ち着いて……」
 父の助け舟の甲斐あってか、彼はやっと落ち着いたようだった。ガクっと肩を落として、安堵の溜息をつく。
「そ、そうでしたか……取り乱してすみません、坊ちゃん。でっでも、本当にグレミオは心配だったのです」
「うん、わかってるよ。ありがとう」
 半ば安心して彼は微笑む。
「さぁ、そうとなれば夕餉の支度を張り切ってせねばなりませんねっ!」
 いきなり背筋を伸ばしてそう意気込んだグレミオは、腕まくりをさらに上にあげた。
「楽しみにしているぞ」
 父が声をかけると、グレミオはハイッ!と声を張り上げ、お玉を振りかざしていた。そこで彼はふと思い出したのように顔を上げ、言った。
「あ、坊ちゃん。テッド君が来ていますよ。お部屋でお待ちしてるそうです」
「わかった。じゃあ父さん、僕は部屋に行くね」
「うむ」
 父は頷くと自室に下がっていった。グレミオが慌ててその後を追うが、すぐに戻って台所に駆け込む。
「大事な仕上げが残ってるんでした!」
 その様子を彼は階段を上がる最中に視界の端に収める。
 それにこっそり小さく笑ってから、彼は階段をまた上り始めた。
 グレミオのシチューは出かけるときは持ち歩きたいくらい美味しい。このこだわりがあってこその味なのかもしれない。  そう思った。

 上の階に上がって部屋に入ると、部屋の主のベッドに寝転がっていた親友が起き上がって、出迎えてくれた。
「よう、ヴェル! 遅かったな!」
「やぁ、テッド。昼寝好きの君がよく寝なかったね」
「残念! さっきまで寝てたんだなこれが」
「どおりで。寝癖酷いよ」
 そういうと、テッドは鳶色の瞳をまんまるにして、慌てるように髪を押さえた。
「え?! マジ?!」
「嘘」
「……っヴェル〜!」
 その一瞬の間抜けた顔がおかしくて、ヴェルは声を上げて笑う。
「そこまで笑うことないだろ〜?!」
「あはは、ごめんごめん」
 ひとしきり笑った後、彼は軽く呼吸を整えてから会話を再開する。
「で、どうしたんだい? 僕からそっちに行こうと思ってたんだけどな」
「いいのいいの、今日はグレミオさんが美味しい夕飯作るっていうからさ。それにありつこうと思ってきたんだよ」

 言いながらヒラヒラさせていた手をひっこめて、今度はそれを腰にあてる。それから彼は歯をむき出しニカっと笑った。
「初の謁見オツカレ! どうだった?」
「やぁ、……まぁまぁかな……。がちがちになっちゃったけど…」
「えぇ?!ウィンディさまがまぁまぁ?」
「は?」
「いや、だからウィンディさまが」
「……もしかして、ウィンディさまがどうだったか、とか訊いてるわけ?」
「もっちろん!」
「はぁ……」
(僕がどうだった?とか訊かないのか…)
 額に手を当ててため息をついても、ベッドに腰掛けたテッドはお構いなしに目を期待の色で彩らせて、こちらを見ている。早く話せといわんばかりだ。
「綺麗だったよ、うん」
 実際は緊張しすぎて誰の顔もまともに見ていない。皇帝陛下の顔を見るのがやっとだった。
 そのウィンディが「かわいい顔」とかなんとか言っていたのを思い出して、彼は心中でちょっとムッとした。
 確かに、彼の顔はどちらかといえば母親似で、父親とはあまりにていないようにみえる。
「そうか、やっぱ綺麗だったかぁ……! 評判通りってやつ?」
 当人はただ綺麗だったよ、とだけしか言ってないのに、テッドは顔を緩ませて、天井を仰いでいた。
 テッドは、その友と大して違わないはずなのに、時折自分を子ども扱いする。しかし、彼だって子供だ。子供みたいに妄想……想像が豊かなのだから。
(……しかし、こんなふうにデレっとしている子供はそうそういないよな)
 と彼は一人で頷いていた。
「……とにかく、明日から僕、城で仕事をするんだ。……父さんもいなくなるし」
 いつまでもその『ウィンディさまはおきれいでした』なんて話をしていたくなかった彼は、話題を変えた。
 それに、天井を仰いでニヤついていたテッドはふっと表情を消して、
「そうだ、俺、お前に話しておかなきゃならないことがあるんだ。明日から仕官だろ? 今のうちにさ」
 と不意にまじめな口調で話し出した。
「何…?」
 少し驚いたのか、彼はかすれた声で聞き返す。


「ぼっちゃーん、テッドくーん!ごはんですよー」








小説メニュへ